紅山桜 ――辰野和男 昔、弾誓上人という遊行聖が桜の木を切って自分の姿を刻みはじめたところ、たちまちその木から熱血が流れでたという。上人は直ちに刻むのをやめて、袈裟で覆い、箱に入れた、という伝説がある。 桜のなかでもとりわけ、紅山桜をみていると、熱血が流れでというこの伝説がなまなましく、身近な物に思えてくる。 北の桜を尋ねる今回の旅は、新潟に住む写真家、高波重春さんと一緒にだった。 私は行く先々の旅館でぬくぬくと畳の上に寝たが、高波さんは川辺や公園内で寝る習慣を変えなかった。毎年、春になると、桜前線を追って全国を走り回る。 ほぼ二十年、そうやって桜を取り続けている人だ。 高波さんとの旅はたのしかった。撮影の合間に「いっくら撮ってもろくなもんできねえけど」「こんげな景色見てんと、写真というちんけえ四角の枠にあさめんのがばからしくなっちゃう。ただもう、ひざまずくしかないなあ」と自嘲のお国ことはが飛び出す時間は、結構調子に乗っている様子だった。ひざまずくどころか、そんな時の高波さんは三脚をかついで右に左にかけ回った。 東北や北海道の桜をて、そのしぶとさに驚かされることが多かった。福島県社三春町にある紅枝垂の巨木、滝桜はわずかに盛りをすぎていたが、私は花の滝に打たれながら、その幹や枝の怪物しめたたくましさに見とれた。私よりも先に着いて撮影を続けていた高波さんは「三日前が最高でした。最高のとき見てもらいたかったなあ」と残念がった。「最高の状態の桜の花が撮れるのは一年の内の一日、一日の内の一時ですね」とも言った。私としては、花はいつ見ても花だと思いたい。つぼみの桜もいいし、泥にまみれた花びらもいい。だが写真を撮るとなると、「一年、いっとき説」も成り立つのだろう。 夜の内に十分に水分を吸った花が早朝の柔らかな光に包まれて照りはえる。その一瞬がすばらしという。逆に乾いた風にさらされ続けると、花の表情はおおざっぱなものになってしまう、のだそうだ。「ですからおらの取材は祈りの繰り返しです。」と写真家はいった。 私たちは福島から青森へと桜を求めてさまよい、南に下って秋田の湯瀬に着いた。湯瀬の山や沢ぞいに咲く紅山桜を見て、二、三日腰をすえることをきめた。高波さんは翌朝の撮影地点をさぐるのに半日を費やした。立ち止って、長い間、桜を見詰め、桜を見詰め、「桜と対話するなんていうのは、こちらの...