三省堂 大辞林 あけち-みつひで 【明智光秀】 (1528-1582) 戦国・安土桃山時代の武将。美濃の生まれ。通称、十兵衛。日向守。近江坂本城主。織田信長に重用されたが、1582年 6月 2日、京都本能寺に信長を襲い自害させた。同一三日、山崎の戦いで羽柴(豊臣)秀吉に敗れ、逃走中土民に殺された。 →本能寺の変 辞書の索引用語の索引ランキング 大津の歴史事典 明智光秀 読み方:あけちみつひで(?~1582) 生年不詳。美濃国の守護土岐氏の一族で、恵那郡の豪族明智氏の出身といわれる。はじめ越前の朝倉義景、のち織田信長に仕える。元亀元年(1570)の姉川の戦いや堅田攻め等に従軍。翌2年の比叡山延暦寺焼き打ち後には、信長の命により坂本城を築いた。光秀は、武将としてだけではなく儀礼、故実に通じ、連歌や茶の湯を好む教養人でもあった。天正 10年(1582)6月 2日未明、京都本能寺に信長を倒したが、山崎の合戦で羽柴(豊臣)秀吉に敗れ、小栗栖で土民に襲撃され没した。 辞書の索引用語の索引ランキング画像一覧 ウィキペディア 明智光秀 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2010/07/05 08:47 UTC 版) 凡例 明智光秀 時代 戦国時代 - 安土桃山時代 生誕 享禄元年(1528年)?[1] 死没 天正 10年 6月 13日(1582年 7月 2日) 別名 通称:十兵衛、惟任日向守 号:咲庵 渾名:キンカ頭 幼 名:彦 太 郎 [2] 戒 名 秀岳 院 宗 光禅 定 門 前 日洲 条 鉄 光秀居 士 [3] 長 存 寺 殿 明窓 玄 智大 禅 定 門 [4] 墓 所 谷 性 寺 (京 都 府 亀 岡 市 )、 西 教 寺 (滋 賀 県 大 津 市 )、 高野山奥の院(和歌山県伊都郡高野町) 官位 従五位下・日向守 主君 斎藤道三→朝倉義景 →足利義昭→織田信長 氏族 源姓土岐氏流明智氏 惟任賜姓 父母 父:明智光綱、母:お牧の方 養父:明智光安 兄弟 光秀、信教、康秀 妻 継室:妻木範煕の娘・煕子 子 光慶、珠(細川忠興正室) ほか系譜の子女を参照 表・話・編・歴 明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代、安土桃山時代の武将。本姓は源氏。家系は清和源氏の摂津源氏系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏。通称は十兵衛 。雅号は咲庵(しょうあん)。惟任光秀。 妻は妻木煕子。その間には、嫡男・光慶(十五郎)、津田信澄室、細川忠興室・明智珠(...